これまでの活動 2009年度

総会講演会
エコ村ネットワーキング総会講演
「札幌市モエレ沼公園計画実現への17年間の活動」メモ

滋賀県立大学環境科学部 松岡拓公雄

1.イサムノグチを参加させる企画と実現

イサム・ノグチ(以後I・Nと略す)という総合的視点を持った環境造形家の参画を仕組み、それを実現させ彼をバックアップし、マスタープランを完成させたことで、既存の公共事業のあり方を変える「モエレ沼公園方式」とでもいえる可能性を示すことができた。

2.イサムノグチとの設計協力と意思の継承

I・Nを札幌市に紹介した後、彼の創作活動そのものの協力を、I・N自身から求められ、マスタープランの作成を協力し、彼の死後も、過去の関係者や作品から学んだことを協力者にとともに最後まで継承した。

3.市民、行政、市長への啓蒙活動

三代に渡る札幌市長の交代及び、一定の期間ごとに交代する行政の担当者にI・Nの思想、計画の哲学と継続性の重要性を理解してもらうため、同時に市民の理解も得るために、アーキテクトファイブ(以後A5と略す)が中心になり、財団、有識者によるたびたびの対話、シンポジウム、講演会、展覧会を継続して催した。

4.実施設計・監理―土木、造園、噴水との設計協力および調整

マスタープラン完成直後に彼が急逝した後、ショージサダオ氏率いるイサム・ノグチNY財団との体制をA5が組織化することで、設計の統括としても重要なポジションにつき設計協力者との調整をはかった。I・Nのマスタープランのもとで継続して計画する意義と重要性を札幌市及び市民に提示し、公園を財団にI・Nの作品として認定させた。

5.多分野にわたる行政協議、折衝

札幌市と協議して、あるいは北電など他分野と折衝し、既に一部完成した公園を市民に開放し、利用する市民の評判やマスコミ報道などの協力を得た。これらのことから行政、市民とA5を中心とするチームがI・Nの哲学を共有することができ、継続の大きな力となった。日本では市長等トップの交代により公共事業が政治的に利用され,変更中止がたびたびおこることを考えると異例の継続性であると言える。

6.市民団体などの参加による様々な「公園活用の活動」との協同

公共事業はともすると行政や専門家などの「作り手」によって一方的に完成品を市民に与えるという傾向が今でもあると思われるが、ここでは「利用者、市民、子どもたちの視点から環境を総合的につくりだす未来の公園をつくる」とでも言う、一般的意味での単なる彫刻家ではないI・Nという総合芸術家の哲学を市民に理解してもらうことをA5が様々な場面で粘り強く説得することから始まったことで、「使い手」である市民が理解する市民の為の公園と認知されたことがこの計画の重要な点であると考える。そのことがモエレ・ファン・クラブの結成に尽力し、継続的で創造性あふれる全国でもまれな市民団体の活動の基礎となっていると考える。我々は現在も活動中である。

モエレ沼公園の前身

モエレ沼公園は,市中心部から約8kmの北東部に位置し,札幌市中心部を流れる豊平川の一部が蛇行して残された三日月湖に囲まれた190haの土地である。モエレ沼公園は「環状グリーンベルト構想」の中で、拠点公園と位置づけられた。環状グリーンベルト構想の公園緑地は清掃事業との連携が想定され、モエレ沼公園は清掃事業で用地を取得し埋立事業を行い、その跡地を公園化する事業としてスタートした。1979年からゴミの埋立てが始まり、不燃ゴミを中心に約274万tが埋め立てられ、1990年に終了した。
その後も、地形造成のために公共残土の受容れが続き、搬入された土量はおよそ400万平米。また、公園周辺区域の治水向上のため、モエレ沼は雨水調整池と位置付けられ、沼の浚渫や公園内の雨水貯留施設の整備が行なわれた。

彫刻家イサム・ノグチと札幌

1988年、A5(川村、堀越、松岡)がI・Nを札幌へ招聘。当時の板垣武四札幌市長に紹介、札幌市は、モエレ沼公園、芸術の森、芸術大学予定地の3箇所を候補地としてI・Nに提示した。3月30日、初めて札幌を訪れ候補地を視察して回ったI・Nは最後に訪れたモエレ沼公園計画地で、我々と、ゴミ埋め立て地でまだ、ビニールなどが舞う現地を足早に歩き回り、「ここにはフォルムが必要です。これは、僕のやるべき仕事です。」と極めて強い創作意欲を示し、この地に子供のためのプレイグラウンドを実現させる決心した。

I・Nは当時の市の計画案について「せっかく広い大地と水辺があるのにこれではその特徴が生かされていない。」と計画を白紙からやり直すよう主張。市はI・Nの強い意志を受け止め、公園のマスタープラン作成をI・Nに正式に依頼した。その際に市は総合公園として必要と考えていた運動施設の配置と、既に行っていた植林などの踏襲を依頼したほかは、I・Nの自由な造形に委ねた。A5は札幌市とI・Nの間の調整をし、I・Nから「これは、大変ですよ、でっかいですよ、僕一人では出来ませんよ。いいですね。」とI・Nは、我々に創作活動の同意と協力を求め、我々は手となって支援した。

5、6、10月とその後にI・Nは3度の来札をし、その都度現場を確認しながら精力的にプランをまとめていった。公園全体がひとつの彫刻と考えられ、広大な大地に大胆な造形と幾何学的な線、また山とその他の施設などの要素が微妙な相互関係とレベル差をもって構成されている。その要素の中には、I・Nがかつて提案した計画、あるいは実現させたものが多くあり、我々に対して、それぞれ参考にすべき作品をひとつひとつ説明してくれた。

I・Nは1930年代から、大地そのものを彫刻として彫りこむアイディアを抱き、以来、多くの庭園や広場を提案し続けたが、モエレ沼公園はそのI・Nの最後にして最大の作品となり、彼の創作活動の集大成としてまとめられたのである。またそこで、再びこの大きなプロジェクトであるモエレ沼公園を進めるために、I・Nは建築家としてA5が全面的に最後まで協同し取り組むことを再び求めた。

イサム・ノグチの死と彼の意志

I・Nはマスタープランを完成させた1ヶ月半後の12月30日にNYの病院で急逝。
新年早々予定していたI・Nと我々とのNYでのモエレ沼公園打ち合わせがそのまま葬式参列と変わった。モエレ沼公園を果たしてどうすべきかが話し合われ、公園全体が一つの彫刻とも言えるものでとうてい続けていくことは、困難と思われたが、I・N自身がI・N財団を始め多くの友人に札幌でのこの大きな公園の夢を熱心に話していたことが分かり、どうにか実現させたいとの思いが我々にあった。札幌市側に働きかけ、市の理解と要請もあって、I・N財団と、財団の理事である建築家のショージ・サダオが監修、建築家の佐々木喬が監修の日本側代理、またマスタープラン制作に協力したA5が設計総括、ランドスケープをキタバランドスケープという体制で、I・N亡き後の公園造成事業が継続されていくこととなった。

モエレ・ファン・クラブの誕生

I・Nはモエレ沼公園を「人々の役に立つ彫刻」と捉え、子どもたちの感性を育てる場所として役立つことを願い、公園を利用する人々の情景が加わって始めて豊かな公園として完成すると考えた。公園は「公共施設」として行政が「整備・管理・運営」するのが通例だが、都市で活用されている公園には、そこを利用し大切に育てている市民の姿がある。我々はモエレ沼公園には、そこを利用する主体としての「市民」が「行政」としっかりと協働して「運営」することが不可欠と考えた。このようなことから、我々A5を核として様々な分野の札幌市民を中心に、モエレ沼公園が「生活の中に生き生きと息づく公園」「子どもたちの心を育む空間」として活用され、未来へ美しい公園として引き継がれることを念願し、2003年5月に「モエレ沼公園の活用を考える会(モエレ・ファン・クラブ/M.F.C.)」を発足させた。

彼の突然の死後、ニューヨークのイサムノグチ財団の多大なる協力を得、実現に向けて札幌市とともに体制造りを推進した。A5は、市長や担当者が変わる行政に対して、常にI・N氏の思想と哲学を伝承し、賛同と共鳴をもとめ様々な協力者を巻き込み、増やしながら、イベントやシンポジウム等を行い、17年に渡る継続的計画となった。その間、札幌市とともに段階的な市民利用開放を行い、市民の意思も反映し、多くのNPOも含めた市民参加による積極的利用を触発するランドマークとも、巨大な環境ランドスケープとも言える全く「新しい公共公園のあり方」として示すことができたことが大きな特徴である。完成前に市の造園課と共に、管理運営を考えるにあたって、市民と恊働して維持管理を考える主体組織の結成に尽力、モエレ沼公園の活用を考える会(MFC)を誕生させ、市民の手で管理運営が支援されるようになった。  そして、180haという巨大なゴミ埋め立て地であった敷地が、それまでの景観的配慮もなく複数の敷地に区分けしただけの従前の公園計画ではなく、ランドスケープと建築が全体でひとつになった類を見ない市民の手で維持される公園が生まれた。